15代、一子相伝で継承されてきた樂

約450年の歴史の重みと同時に、

それぞれの時代感覚を反映させながら

独自の美を追求してきた新しさを併せ持ちます

樂焼とは
Raku ware

樂焼は、織田信長、豊臣秀吉によって天下統一が図られた安土桃山時代(16世紀)に花開いた桃山文化の中で樂家初代長次郎によってはじめられました。樂焼の技術のルーツは中国明時代の三彩陶といわれています。この時代には京都を中心に色鮮やかな三彩釉を用いる焼きものが焼かれはじめていましたが、長次郎もその技術をもった焼きもの師の一人であったと考えられています。長次郎の残した最も古い作品は、本展に出品される二彩獅子、天正2年(1574)春につくられました。おそらく樂茶碗がつくられるのはそれより数年後、天正7年(1579)頃ではないかと考えられています。

樂焼の技法
Technique of Raku ware

一般にイメージされる焼きものは、轆轤で制作、電気やガス、あるいは薪を用いた窯で焼き上げるというものです。樂焼は、轆轤や型を使用せず、一点一点手捏ね(手捻り)によって制作されていて、それは初代長次郎にはじまり現在15代まで続いています。さらに形ができた段階で、今度は篦によって土をそぎ落とすという方法により造形を作っていきます。それは極めて彫刻的な手法、造形性に富んでいます。さらに、焼成は極めてユニーク、我々の常識を覆す焼成法です。樂焼の窯は、1点しか入れることができず、それも、備長炭という堅い炭を用いて鞴で火を調整しながら焼き上げます。樂家の制作は職人による分業を行いません。弟子は取らず当主独りで制作、しかし、窯焚きのときだけは出入の人々が集まり深夜から手伝います。手伝う人も親から子へと窯焚きの技を伝えます。そこに集う全ての人の心の和と絆が一碗の茶碗を炎の中から生み出します。そこからできた赤や黒のモノトーンの作品は、利休の侘びの世界を示しているといえます。

樂焼の名称
Name of Raku ware

千利休や長次郎が生きていた時代は、まだ「樂焼」という名はありませんでした。この新しく生まれた茶碗は当初「今焼」と呼称されました。今焼かれた茶碗、つまり“Art Now”その時代の前衛芸術でした。樂の名称は豊臣秀吉から樂の字を賜ったことによるといわれています。長次郎は秀吉の建てた「聚楽第」の付近に住まいし、そこから出土する「聚楽土」を用いて茶碗を焼きました。聚楽屋敷に住まいした利休の手を経て世にだされ「聚楽焼茶碗」とやがて呼ばれるようになりました。

樂家
Raku Family

樂歴代の系譜

樂家は、「樂歴代の系譜」にあるように初代長次郎から十五代樂吉左衞門まで続いています。しかし、系譜からもわかるように、世襲によってその系譜が作られてはいません。他家からの養子により親戚関係を結び、その「子」に当代の総てを伝えるという一子相伝の芸術を展開しています。この様な形で樂の精神性から技術や歴史までを伝えている陶家は見ることはできません。その意味でも樂家のもっている芸術の伝え方は伝統を考える上でも重要な示唆を与えます。樂家がこの地に居と窯場を構えたのは、天正4年(1576)に京都法華寺再建のための勧進帳記録(京都頂妙寺文書)に田中宗慶はじめ二代常慶、宗味の名前が残されており、それによると、宗慶は南猪熊町、常慶は中筋町、宗味は西大路町に住まいしていたことを確認することができます。南猪熊町は後に聚楽第の利休屋敷があったあたりと考えられます。現在の樂家の場所には、聚楽第が造営された頃に移ったのではないかと考えられます。以来450年、樂家歴代は変わることなく樂焼の伝統と技術を現代に伝えてきました。その制作と焼成法は450年前と全く変わらぬ方法で今も焼かれています。


樂歴代の系譜(PDF/約531KB)